ブログ「火山と古事記」③
スサノオとともにワノフスキーの火山神話論の中核にあるのが国産み神話の女神イザナミである。日本列島を産んだ女神に、火山的なエネルギーをみているのだ。イザナミ=火山という仮説的な視点から古事記を読み直すと、いくつかの謎について、その解明の糸口が浮き上がってくる。
兵庫県南あわじ市の沼島は、国産み神話の舞台として紹介されることが多い。写真左の上立神岩のまわりをイザナギ、イザナミはまわった、ということらしい。(写真は、「沼島総合観光案内所よしじん」より)
イザナミの不人気
女神イザナミは夫のイザナギとともに、日本列島をかたちづくる本州、九州、四国、その他の島々を生み、山の神、海の神などさまざまな神も生んでゆきます。いわゆる大地の女神、mother earth 的な性格があるといわれています。
日本列島で私たちが暮らすことができるのも、イザナミのおかげです。ありがたや、ありがたや、と日本列島民の感謝をうけながら、イザナミは安穏に暮らしているかというと、どう考えてもそんな感じはありません。
イザナミを主祭神とする神社は、それほどないし、アマテラス、スサノオに比べて、国民的な人気がないのは明らかです。
日本列島を生み、神々を生み、そのあげく、火の神カグツチの出産時の火傷で死んでしまった女神に対して、その自己犠牲的な生涯に対して、私たちはあまりにも冷たいのでしょうか。
不人気の理由ははっきりしています。
死んだあとのイザナミが暮らしている黄泉(よみ)の国は、古事記において、さながら地獄のようなイメージで描かれています。太陽の女神アマテラスに対して、「死」を具現化する暗黒世界の女神イザナミ、という配役になっています。
黄泉の国の女王となったイザナミは、夫イザナギと完全に決別し、
「あなたの国の人間を一日に千人、殺しましょう」
と宣言しています。
つまり、日本人に対するメガデス(大量殺害)宣言です。
自分で生んだ国なのに、自ら大量殺害を計画するとは!
ここで悪役イメージは決定的となります。
イザナミ、イザナギは、日本列島の歴史において、とても有名なカップルです。
本来であれば、縁結びの神さまとして信仰されるのでしょうが、残念ながら、ふたりは、大げんかの末、絶縁しています。
日本列島史上、初ともいえる離婚のケースとも見なすことができ、恋愛成就を祈願するうえで、どうも縁起がよくありません。
日本列島のような巨大なものを見事に生んでいるので、本来であれば、安産の神として信仰されそうなものです。
しかし、それもありません。
イザナミは出産時の傷が原因となって死んでいるので、仕方がないとはいえ、この点は、いくらか気の毒な感じはします。
三重県熊野市の花の窟神社には、イザナミ、カグツチの墓がある。『日本書紀』の一書で、イザナミの墓が熊野にあるとする記述にもとづく神社。ご神体である巨大な岩石は、熊野酸性火山岩類に分類される流紋岩質の火砕岩。1500万年まえ、熊野カルデラを生じた巨大噴火に由来する。
切り火、焼き畑、それとも火山
イザナミは火の神カグツチを出産したことで傷つき、死んでゆきます。火の神カグツチの出産については、古代の発火法(切り火)に関連づけた説がよく知られています。
切り火説は、切り火杵、切り火臼を男根、女陰に見立てたもので、実際に、女性器から火を得るという神話が諸外国にもあることから、その共通性が指摘されています。
民族学者で比較神話学の大家だった大林太良氏をはじめ、多くの研究者が述べています。
また、火の神カグツチの出現を、焼き畑農業にもとめる見解もあります。
文明史的なカグツチ解釈もあります。
西郷信綱氏による『古事記注釈』では、カグツチは「文明としての火」であるとされ、「半ば文明であり、半ば野生」である火の神の出現によって、古事記の物語が大きく場面転換すると述べられています。
カグツチの火については、西條勉氏も
「この火も火山などの火ではなく、人にコントロールされた、ちょろちょろ燃える火、文明の火である」(『古事記神話の謎を解く』)と述べています。
ここでも火山説はマイナーな説として、あまり相手にされて来なかったようです。ワノフスキーはカグツチというより、彼を産んだイザナミそのものを火山と解釈して、大胆な議論を展開しています。
女神イザナミは大地の神である。しかし単に沃土の女神という意味でばかりでなく、日本列島を産み出した火山的自然現象の女神という意味においてもそうなのである。女神イザナミのこの火山的本性が彼女の性格中最も重要な特質であり、それがまさしく日本の創世神話をギリシヤやバビロニヤの神話に当てはめるのを妨げているのである。
大地の女神は他の多くの民族の神話の中にも存在しているが、同時に火山の女神の特徴をも有している大地の女神は、日本神話の独自的特殊性を構成しているものである。これは日本が火山国であるということに着目すれば容易に理解できることである。
(ワノフスキー著『火山と太陽』)
死火山としてのイザナミ
ワノフスキーの古事記論は、詩人的な直感まかせのところがあり、それが魅力でもあり、欠点でもあるのでしょうが、イザナミについては、「死火山」であると断じています。これはユニークな視点です。
女神イザナミは島々を生んだ後、火の神を生んだために死に、地獄へと下っている。かくの如く火山は、新しい大地を創成し、熔岩の流れを注ぎ出し、別離の炎を噴き上げ、そしてしずまり始め、そして絶えず死の状態へと移ってゆく。
自己の腹の中から多くの島々を産み出し、炎を噴出し、その後静穏の状態に移行している火山、換言すれば──死火山であり、女神イザナミの神話が発生した宇宙的根拠は実にここにあるのである。 (『火山と太陽』)
ひところ、活火山・休火山・死火山という火山の三分類が教科書にも掲載されていましたが、死火山とされていた御嶽山が噴火を再開するなどいくつかの不都合が生じたため、今日、死火山という言葉は文字通り、死語となっています。
ワノフスキーはイザナミを喩えて「死火山」といっていますが、完全に噴火活動を停止した火山というニュアンスではありません。巨大な噴火のあと、不気味な静寂を保った山として描いています。完全な死ではなく仮死状態、三分類でいえば、休火山の意味に近いのかもしれません。
死火山はあらゆる瞬間において、爆裂し恐ろしい破壊をなしえるからである。概して活火山の噴火は、死火山の突然の爆裂よりも危険でないということを認めねばならない。
死せる女神であり、同時に地下の国に幽閉され、そこから人々を脅かしている死の女神は、ちょうど火山の同じような状態に合致している。前述したところに従えば、女神の外部への出現は、彼女がかつて産み出したかもしれぬ、火山活動の巨大な爆裂を意味するものであるかもしれぬ。 (『火山と太陽』)
ワノフスキーの「イザナミ=死火山」説がどれほどの妥当性、説得力をもっているのか、なんともいえませんが、国産み神話のヒロインであるイザナミの死について、これほど好意的で、クリエイティブな解釈を聞いたことがありません。
イザナミは「死」の世界をつかさどる女神だとされています。死の世界といっても、天国ではなく、暗い地獄の印象です。
もっと、詳細な議論を好む論者は、古墳に埋葬された死体の腐敗する状況を目にした人の経験が反映されているといいます。
どちらにしても、不気味な死神のイメージです。
一方、ワノフスキーにしたがって、彼女の死は、大噴火を終えたあとの長い沈黙、すなわち、「火山的仮死状態」と考えたならば、日本列島にいくつも存在する死火山・休火山の風景と重なります。
地獄の女神ではなく、死火山の女神。
学問的な妥当性はよくわかりませんが、イザナミにとっても、日本列島の住民にとっても、イザナミを火山の神と考えたほうが、お互いの幸福にむすびつくような気がするのです。
一見、理不尽とも思える自分が産んだ国の民に対する大量殺りく宣言にしても、火山という出自がわかれば、
「悪気はなくても、時には火を噴き、地を揺さぶり、日本列島の住民に迷惑をかけるのは仕方ない」
と納得ができます。
理由もなく、怒りを爆発させ、まわりを困惑させるのは、火山の神の特徴だからです。
そして、そんな火山の神は、ハワイにもいるのです。
追走する火山の女神
ホルアのそりに乗って、追いかける火山の女神ペレから逃走中。(写真は、「ハワイの神話と伝説」サイトより)
火山の女神といえば、いちばん有名なのはペレです。
世界でも有数の火山エリアであるハワイ諸島。
ペレは、ハワイ島のキラウエア火山の火口に住んでいるそうです。
火のように官能的で美しい女神のようですが、少々、切れやすい性格で、ささいなことで怒りをあらわにします。
このあたり、イザナミに似ています。
イザナミは約束を破った夫イザナギを追走して殺そうとしますが、ペレにも同じような伝説があります。
ハワイには、伝統的なスポーツとして、草の斜面を「そり」で滑り降りるホルア(holua)という競技があるそうです。ハワイ島カフクにいたふたりの若い族長はこの競技が好きでしたが、ペレもホルアが大好きでしたので、人間の美女の姿で仲間に加わりました。ふたりの族長は、恋のライバル関係となりますが、毎日のようにペレをまじえて、ホルアを楽しんでいました。
そのうち、ふたりはホルア好きの美女が、ふつうの人間ではなく、火山の女神ではないかという疑惑をもち、距離を置こうとします。しかし、ペレはそれを許しません。無理矢理呼びつけ、草が枯れるまでホルアを続けさせます。怯えたふたりが逃げようとすると、ペレは美女の仮面を脱ぎ去り、火山の女神としてふたりを追走します。
百年まえの出版ですが、" HAWAIIAN LEGENDS OF VOLCANOES"(W. D. Westervelt 1916)という本がネット上で公開されているので、省略しつつ、追走場面を引用してみます。
彼女の髪は逆立ち、体は炎に包まれ、目は稲妻のように燃えさかっている。口からは煙を吹き出していた。
恐怖にすくみあがったふたりの族長は海に向かって逃げ出した。ペレは両足で大地を踏みしめた。すると、大地震がカフクの土地を襲った。恐ろしい炎の波が地面から吹き出し、カフクの町全体を覆い尽くしてしまった。
なだれ落ちてくる炎の上にはペレが乗っかっていた。ふたりの男たちは北へ向かって逃げようとしたが、ペレは炎で遮ってしまう。今度は南に向かうが、それも邪魔されてしまう。 しかたなく、カヌーで海に逃げようと海辺に駆け下りた。
必死で走る二人。どんどん海に近づいていた。だがペレは燃える腕を、かつての恋人だった男に投げかけた。あっという間に、その男の命は奪われ、その死体の上に流れてくる溶岩で小山ができた。 もう一人の男は恐怖で固まってしまったところを、ペレに捕まり、あっというまに溶岩の山によって埋められてしまった。 こうやってペレの二つの丘はわずかな間に出来上がった。
ハワイ島の海岸近くに、「ペレの丘」という溶岩でできた二つの丘があり、その由来を物語る伝説という趣向になっています。
この伝説で描かれているペレの追走劇は、明らかに、溶岩流です。
地質学者は玄武岩質という用語をつかいますが、ハワイの火山から出される溶岩は、粘性が弱くて、流れやすいものなので、現実に人間と追いかけっこになる局面があるようです。
日本では伊豆大島の火山がハワイの火山と似た性格であるとされています。一九八六年の噴火では、溶岩流が町役場などのある島の中心部のすぐ近くまで迫り、全島民が避難するという事態になりました。
ハワイも伊豆大島も、噴火によって出現した火山島であり、火山を神として崇敬してきた共通の歴史をもっています。ワノフスキーは伊豆大島に長期滞在したことがあり、そのときの経験が、火山神話論のモチーフとなっています。
イザナミも溶岩流・火砕流か?
火の神カグツチの出産のあと、イザナミは死んでしまいます。妻を奪われた悲しみと怒りから、イザナギはわが子カグツチを剣で斬り殺し、イザナミを追って、黄泉の国へ行く──という有名な場面となります。
もう一度、地上に戻っていっしょに暮らそうという誘いに、心を動かされたイザナミ。
「黄泉の国の神と相談してきます。そのあいだ、わたしを見ないでください」
しかし、イザナギは約束を守れず、変わりはてた妻の姿を見てしまい、驚愕し、黄泉の国から脱出しようとする。イザナミは、
「よくも、わたしに恥をかかせましたね」
と怒り、イザナミの配下である女鬼神「ヨモツシコメ」に追走を命じた。イザナギは逃げながら、身につけているものを女鬼神に投げつける。
さらに、イザナミは黄泉の国の軍団、雷神を派遣しイザナミを追走する。イザナギは剣を振りながら逃げ、桃の実を投げつけると、黄泉の国のものたちは退散した。
今度は、イザナミ自身が、イザナギを追いかけてきた。イザナギは巨大な岩をもってきて、黄泉の国との境に置き、ふたりは岩をはさんでにらみ合う。
イザナミは言う。
「愛しいわが夫、あなたがこんなことをするならば、わたしはあなたの住む国の人間を一日に千人、殺しましょう」
イザナギは言い返す。
「愛しいわが妻よ、お前がそんなことをするならば、私は一日に千五百の産屋を建てよう」
火山の女神ペレのボーイフレンドは溶岩で殺されてしまいますが、イザナミは逃げ延びて、天皇家につながる歴史の始祖となっているので、物語の結末はまったく違いますが、はげしく追いかける女神、逃走する男というフレームワークは同じです。
ペレは火山の神であり、イザナミについても、ワノフスキーをはじめとする人たちによって火山の神と目されています。
イザナミ=火山という仮説に立って、黄泉の国のドラマを見るならば、イザナギを追走するイザナミは、溶岩流あるいは火砕流ということになります。『死都日本』の石黒耀氏をはじめ、近年、イザナミの追撃を火砕流であると考える人が増えつつあるようですが、古事記研究者からの反応はあまり目にしません。
ふた昔まえの比較神話学であれば、双方の神話の内容を比較検討し、環太平洋の火山地帯における影響関係をうんぬんしたかもしれません。
しかし、東京オリンピックのエンブレム問題ではありませんが、人間が同じようなアイデアをかんがえるのはよくあることで、火山的な風土の濃厚な日本列島とハワイ諸島に、同じような神話が発生したと考えておけばいいような気がします。
ふたつの神話で違う点といえば、ペレは火山の女神であることが当然の前提となっているのに対し、イザナミは火山の女神として、認定されていないことです。
ワノフスキーを応援する立場でいえば、女神が男を追走するふたつの神話の共通性は、「イザナミ=火山」説を補強するデータにはなりそうです。
恋人であれ、妻であれ、女性がほんとうに怒ったとき、男はひたすら逃走するしかない、という世界に普遍的な教訓というか諦めのようなものを物語る神話なのかもしれません。
(桃山堂)
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清水篤 (金曜日, 30 3月 2018 01:19)
富士山の語源と、なったアイヌ民族の女神フンジの情報が、手に入りません。知っておられますか?
桃山堂 (金曜日, 30 3月 2018 13:54)
もうしわけありませんが、アイヌ語方面は不勉強で、よくわかりません。小説ですが、石黒耀氏の『富士覚醒』にこの話題が出ていたように記憶しています。