岩佐又兵衛と秀吉
■カバー画像「洛中風俗図屏風」をめぐって 岩佐又兵衛と秀吉
「洛中風俗図屏風」(舟木本)について、多くの専門家は江戸時代初頭を代表する絵師、岩佐又兵衛(一五七八~一六五〇)の作としており、定説化しています。又兵衛の代表作のひとつには、秀吉没後七年の祭礼を描いた「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館所蔵)もあります。この分野の第一人者、辻惟雄氏(東大教授など歴任)によると、「又兵衛が亡き秀吉に少なからぬ好意を寄せていた」(文春新書『岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎』)のは確かであるようで、豊臣氏との因縁浅からぬ絵師です。
左右、二枚一組の屏風絵で、右側の屏風に描かれている方広寺(大仏殿)は、秀吉の廟墓である豊国神社と一体で運営されていた寺院です。鐘の銘文「国家安康」に幕府側が難癖をつけ、豊臣氏が滅亡する大坂の陣の端緒となりました。左側の屏風には、秀吉の没後、徳川家康が京都における居城として築いた二条城が見えます。豊臣と徳川のにらみ合いを暗示させる不穏な構図で、大坂の陣を目前とした慶長十八年(一六一三)か十九年ごろに制作されたと考証されています。
又兵衛は、信長の二男、織田信雄の家臣であった時期があり、絵師として自立したあとも信雄の庇護下にありました。もしかすると、信雄の縁で、大坂城の秀頼、淀殿親子と又兵衛に接点があったかもしれません。というのも、秀吉の没後も、織田信雄(当寺は出家して法名常真)は秀頼、淀殿親子の相談役として大坂城のすぐそばの天満に居住していたからです。淀殿の母(お市)は信長の妹なので、信雄はイトコです。大坂の陣のあとほどなく、又兵衛は住みなれた京都を離れて、越前国(福井県東部)に移っています。豊臣氏滅亡にともなう政治的な変動で京都に居づらくなったのでは、という指摘もなされていますが、いずれも史料のうえでは未確認です。
六十歳のとき、今度は越前国から江戸に移住しますが、その途中、秀吉の廟墓である京都の豊国神社に参詣しています。荘厳華麗であった社殿が幕府によって破却され、荒れはてた様を見て、「久しからぬ命のうちに、栄へ衰へを見るこそ哀れなりけれ」と道中記に書き留めています。北野天満宮では、有名な北野大茶会のときの秀吉の面影を追っています。十歳のころ、大茶会に参じていたことがわかります。
又兵衛の父親は荒木村重といい、天下統一を目前としていた織田信長の家臣団で、六人の有力武将の一人でした。他の五人とは、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、そして羽柴筑前守を称していた秀吉。ところが、本能寺の変の四年前、荒木村重は突如、織田信長に敵対し、有岡城(兵庫県伊丹市)で籠城戦を展開しています。落城したとき、赤子だった又兵衛は乳母によって救われたようです。家族、親族、家臣の多くが落命したにもかかわらず、村重は密かに城を抜け出し、本能寺の変のあと、秀吉の御伽衆となって晩年をすごしています。政治的な復権は果たせませんでしたが、経済的にはそれなりの待遇を得ていたようです。
村重は芸術的な才に恵まれ、筆庵(法名は道薫)と称する歴史上著名な茶人であり、俗に千利休の高弟と伝わる「利休七哲」にリストアップされることもあります。 司馬遼太郎に荒木村重を主人公とする『鬼灯《ほおずき》』という作品がありますが、城を抜け出した村重にお供の家来は、「秀吉殿と、殿とは、仲よき御同輩でござったな」という言葉を投げています。村重と秀吉がどの程度、親しかったかはさておき、又兵衛が豊臣氏にかかわる作品を残していることと、何か関係があるのかもしれません。
『豊臣女系図 哲学教授櫻井成廣の秀吉論考集』より