「日本神話の一考察──火山信仰の痕跡について」
湯浅泰雄 一九七〇年
静岡県富士宮市の浅間神社は、富士山をご神体とし、コノハナサクヤ姫を主祭神とする。
コノハナサクヤ姫(木花之佐久夜姫)は、天皇家の始祖神ニニギの妻。
火につつまれた産屋で、三人の元気な子どもを産んだので、安産の神として信仰されています。
木花之佐久夜姫という名は、美しい木の花、すなわち桜だといわれています。
でも、吉野山をはじめとする桜の名所で、コノハナサクヤ姫が信仰されているという話はききません。
この女神を祭神とするのは静岡県富士宮市、山梨県富士吉田市を本宮とし、全国各地にある浅間神社です。富士山をご神体とする信仰において、サクヤ姫がそのシンボルとなっているのです。
なぜ、桜の女神が、富士山信仰の中心にいるのか?
その疑問に説得力のある答を提示しているのが、哲学者、思想家として紹介されることもあった湯浅泰雄氏の「日本神話の一考察」です。故人ですが、大学教授としては主に思想史を講じていたようです。
湯浅氏はこの論考において、
コノハナサクヤヒメは後代には富士山と結合しているが、その原因は、もともとこの女神が火山だったからではあるまいか
と、天皇家の始祖神ニニギの配偶者である女神を火山そのものであると主張しているのです。
コノハナサクヤ姫は、「火中出産」と「一宿妊み(ひとよばらみ)」という二つのキーワードによって知られていますが、エピソードとしては同じもので、ざっとこんな話です。
天孫降臨によって、天上世界から降りてきたニニギが、地上に暮らしていたサクヤ姫を見初めて、親の大山津見(オオヤマツミノ)神に結婚をもうしこみ、了承されます。ところが、一晩、同衾しただけで、サクヤ姫が子どもを身ごもったので、ニニギは自分の子どもではないのでは、という至極もっともな疑惑を口にします。
それに対して、サクヤ姫は、ニニギの子にちがいないことを証明するために、高い建物をつくり、土をもって塗りふさぎ、それに火をつけて出産に挑みます。
サクヤ姫自身の口から、天孫ニニギの子であれば無事に産まれ、違う神の子であれば産まれることはない、という理屈が示されるのですが、みごと、火の中で三人の皇子を産み終えるのです。
古事記、日本書紀の諸伝に、多少のちがいはあっても、おおむねこんな話が出ています。
「火中出産」については、奄美、沖縄などの諸島に、産屋で火をともしながら出産するという民俗があることをひきあいに出す説や、熱湯に手を入れて心の正邪を占う盟神探湯(くがたち)の一種であるという説などがありますが、その場合、たった一日の結婚生活で三人の子をなしてしまう「一宿妊み」のほうはうまく説明できないことになります。
コノハナサクヤ姫を火山とみなすことで、問題はかんたんに解けると、湯浅氏は記しています。
内部に深く産まれ出ずべき生命を抱いた山の姿は、入口のない、土でぬりふさがれた産屋そのものであり、もえ上る火の産屋は、鳴動し火をふいて爆発する火山の姿である。
一夜にはらんで子らを生むということは、噴出する溶岩流や新しい山々の隆起に外ならないであろう。
(「日本神話の一考察」)
サクヤ姫がつくった大きな産屋を、古事記は「無戸八尋殿」、日本書紀は「無戸室」と記しています。戸のない建物とは、ナゾナゾのようですが、巨大な火山の、底知れない火口内部だというのです。
火山の噴火は、ときとして、長い歴史においては一瞬ともいえる短い時間のうちに、新しい山を出現させます。北海道には昭和新山があり、九州・長崎県の雲仙岳は一九九〇年代の噴火により、平成新山を誕生させました。
新しく出現した平成新山は、雲仙岳の最高峰となっている。
天孫降臨神話の舞台として、記紀に明記されている九州は、火山列島・日本においても、とくに巨大な火山の集積しているところです。
天孫降臨の主人公ニニギが結婚したコノハナサクヤ姫の神話的実態は、瞬時に三つの山(三人の子ども)を形成するほどの火山であった──というのが湯浅氏の火山神話論のポイントです。
サクヤ姫が燃えさかる炎のなかで出産した三人の皇子の名について、古事記は、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほをりのみこと)としるしています。
日本書紀は、火闌降命(ほのすそりのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火明命(ほおかりのみこと)とし、諸伝には別の名を記録していますが、共通しているのは「火」のつく名をもっていることです。これについて湯浅氏は、
火の名を負う聖なる祖神たちはもともと火の神性を贈与された存在であるが故に、火の中から生まれ出る伝承を負わねばならない
と述べています。
火の名をもつ三人の皇子のうち、一人は九州南部の雄族・隼人の先祖となり、一人は天皇家の先祖となります。
湯浅氏の理解が正しければ、三人の皇子が、「火」をもつのは、母親のサクヤ姫が火山の女神であるからということになります。
昭和天皇もいまの平成天皇も、系図のうえでは、ニニギ-サクヤ姫の夫婦の血縁の直系なのですから、この説が正しければ、歴代の天皇は「火山」の遺伝子をうけついでいることになります。
湯浅氏はこれを淡々と叙述しているのですが、恐るべき、大胆な問題提起ではないでしょうか。
古事記、日本書紀の記述によると、コノハナサクヤ姫は、またの名をアタツ(阿多津)姫といい、鹿児島県でもその南端部の「阿多」に住む姫であると解説されています。
古代以来、阿多郡は現在の南さつま市、日置市あたりをさす広域地名であったようです。現在はごく狭いエリアにすぎませんが、阿多小学校、阿多保育園など、由緒ある地名がつかわれています。
コノハナサクヤ姫が暮らしていたとされる「阿多」は、現在も地名としてのこっている。写真は、サイト「南薩日乗」より。
サクヤ姫には、イワナガ姫という姉がいました。美しい妹とは似ても似つかぬ醜い女神であったといいます。ニニギから、サクヤ姫との結婚をもうしこまれたとき、父のオオヤマツミは、美しい妹に添えて、醜い姉も、ニニギで送りつけました。ところが、ニニギはサクヤ姫だけを娶り、イワナガ姫を送り返してしまいます。
その結果、ニニギの子孫の寿命は、「花」が散るように短くなり、「岩」のような長い命を失うことになった、というオチがついています。
バナナ型神話というものがあります。神さまからバナナと岩をさしだされたとき、人間は、バナナを選んでしまったので、バナナのようにはかない命になったという話です。インドネシアなど南洋諸島に広がるこのタイプの神話と、サクヤ姫・イワナガ姫の神話の類似を指摘する手際があざやかで、言われてみると、たしかにソックリの話なので、それで一件落着となったようになっていたようです。
そうした神話をたずさえた人たちが、インドネシアなど南方から移動して鹿児島の南端に住みつき、サクヤ姫の先祖となった──というような話がもっともらしく説かれています。
しかし、サクヤ姫の物語を火山神話として読み解こうとするとき、まったく異なる情景がうきあがってきます。
日本書紀の諸伝の第六として、ニニギは阿多の「長屋の竹島」に登ってうんぬんと書かれているところを、湯浅氏は、現在の長屋山として、以下のように述べています。
今、この山に登って鹿児島湾の方角を眺めるとすれば、北東の方向に噴煙を吐く桜島がそびえ、東南の方向に開聞岳がみえる。開聞岳は薩摩富士とよばれる美しい円錐火山(コニーデ)で、海岸に高くそびえている。(中略)
これに対して桜島は多くの峰をつらねている。前者を美しい「少(おとと)」に見立てれば、後者はいかにも醜い「大(あね)」となろう。
左は、富士山型成層火山の開聞岳。右はゴツゴツした岩が目立つ桜島(北岳、南岳)。湯浅説は開聞岳=サクヤ姫、桜島=イワナガ姫。写真左はウィキペディア「開聞岳」より。指宿市役所サイトより。地図は、『湯浅泰雄全集 第九巻』より。
サクヤ姫になぞらえられた開聞岳は「薩摩富士」と称される美しい円錐形をしており、その秀麗な容姿が似ていることによって、のちに富士山の女神になったということになるので、火山説が正しければ、薩摩富士とよばれている開聞岳のほうが、元祖だといえます。
背の高さも一一〇〇メートルほどの桜島に対して、開聞岳は九百メートルほどと少しだけ小柄で、姉と妹にふさわしくみえます。
火山の姉妹の父親オオヤマツミは、大山津見という漢字表記のとおり、巨大な山の神です。湯浅氏の論考では、霧島山がこの神の本体として示唆されています。一七〇〇メートル級の主峰韓国岳をはじめとして大きな山が連なり、父親にふさわしい山容ですが、第二峰・高千穂峰は、天孫降臨神話でニニギが降り立った山であるとかねてよりいわれているところです。
霧島山とは特定の山ではなく、鹿児島と宮崎の県境エリアにある一大火山群のことです。火山や火口に由来する湖が二十ほど集まっており、日本列島を代表する火山の集中エリア。三十万年まえに火山活動が始まり、現在も新燃岳などで噴火が継続しています。
湯浅氏の説によると、オオヤマツミ、サクヤ姫、イワナガ姫の家族は、霧島山、桜島、開聞岳をシンボライズした神です。
天皇家の始祖神ニニギは、とてつもなく強大な火山の一族と婚姻関係をむすび、子をなしたという
ことになります。
ここで、ワノフスキーの『火山と太陽』がおもいだされます。
ワノフスキーが提示していることは、天孫降臨とは、荒ぶる火山活動を鎮静させるため、天上の神ニニギが地上世界に降り立った物語であるという解釈です。
天皇家の系譜につながる天上の神々は、火山の神々と闘い、和解し、協力することによって、日本列島の歴史をかたちづくっていった、というのです。
ワノフスキーはコノハナサクヤ姫についての議論を展開させてはいませんが、湯浅氏がいうようにこの女神が火山の神であるならば、天上の神と火山の神の和解としての結婚であったというストーリーになります。
ワノフスキーの火山神話論と湯浅氏のそれは、ここで接点を生じる可能性があります。
本稿の筆者が、『湯浅泰雄全集』所収の一編「日本神話の一考察」を読んだのは、『火山と日本の神話』を編集するため、資料収集をしているときなので、湯浅氏の熱心な読者でもなんでもありません。
なんとなく名前を知っているという程度で、ユングとか東洋思想にも関心のある哲学・思想かんけいの先生という程度のイメージしかもっていませんでした。
湯浅泰雄氏は一九二五年に生まれ、二〇〇五年に亡くなっています。
東京大学では和辻哲郎の門下で、山梨大、大阪大、筑波大の教授をつとめていたというのですから、立派な学術研究者の経歴です。
「日本神話の一考察」は、山梨大学で教えていた一九七〇年に、学内誌に書かれたものが初出のようですが、全集に収めるとき、かなり改訂したことがしるされています。
しかし、この論考にはさらなる前史があって、湯浅氏が学生だった終戦直後のノートに、コノハナサクヤ姫を火山の女神として考えていたことが、書かれているというのです。
『火山と日本の神話』に掲載したインタビューのため、鎌田東二先生に話をうかがっているとき、
出てきた話です。鎌田先生は、湯浅泰雄氏にかんする本を執筆・監修する仕事もなさっており、
そのノートを実際に見たそうです。
敗戦という危機的状況は、個人にとってもアイデンティティの危機であり、そのとき、湯浅青年は、古事記と向き合い、そこに火山の記憶をみたというのは、とても興味ぶかいことです。
湯浅氏の火山神話論が、思い付きと語呂合わせ程度のものではなく、もっと切実なモチベーションにもとづくものだということもよくわかりました。
「日本神話の一考察」の冒頭ちかくで、湯浅氏は自分のことを、歴史研究者でもなく、古事記や神話の研究者でもない一種の門外漢だとしたうえで、自らの立場を、「日本人の思想史の源流を尋ねようとする」者であると規定しています。
そして、この論考で、「一つの仮説をのべてみたい」と宣言しています。その仮説とは、「記紀の伝承の背後に、滅び去った自然信仰の時代の痕跡がかくされているのではなかろうか」というものです。天皇や有力氏族の物語、政治的な説話という記述のうしろに、自然そのものを神としていた思考の痕跡が隠れているのではないかというのです。
火山の神話を手がかりとして、日本列島の精神史の、どこまでも遠いところを見つめようとするピュアーな野心を、以下の記述からも知ることができます。
古代の探究という仕事には、夢と空想がつきものである。それはいわば、記憶喪失者がおのれの過去をまさぐるような、おぼつかない心の旅路である。
そこには、文学的想像と科学的実証のあいだをつなぐ、ある種の、根元を問う思索めいたものがある。そこにまた、専門的科学的な学問方法論の及びかねる限界もあるわけで、かの倭人伝論争や銅鐸の謎のごとく、夢が跡をたたぬゆえんでもあろう。
私もまた、そのような愚者の夢を追ってみたい。
本稿の筆者のように湯浅氏のことをほとんど知らない素人読者にとって、その人柄の一端がうかがえるような含蓄のある一文です。小学生の読書感想文の結びのようですが、この著者のほかの本も読んでみたいとおもいました。 (桃山堂)