島根県大田市というと、世界遺産・石見銀山のあるところとして記憶されている方も多いとおもいますが、この地にある三瓶山は、気象庁が指定する百十の活火山のひとつです。
でも、穏やかで明るい風景の広がる三瓶山を、火山とはおもっていない地元の人も少なくないという話を聞きます。
なぜなら、この火山は、縄文時代の中ごろまで激しい活動をつづけたあと、弥生時代から現在に至るまでの二千何百年かの時間、すっかり鎮まっているからです。
三瓶山のふもとに、三瓶自然館サヒルメという島根県立の博物館があって、火山としての三瓶山についても詳しく解説されていました。
一〇万年まえから縄文時代までの激しい火山活動の歴史をまとめたパネルです。
三瓶自然館から車なら五分ちょっとの距離ですが、四〇〇〇年まえの巨大な噴火にともなう土石流で、〝生き埋め〟にされた森が発見され、「小豆原埋没林公園」として保存されています。
農業工事のとき、地面を掘っていたら、直立した杉が、地中から出てきて、たいへんな騒ぎになったそうです。
本家・屋久島の「縄文杉」はどうも違っていたようですが、こちらは正真正銘の「縄文杉」です。
土石流という現象は、火山噴火にともなう火山灰、火砕流などの堆積物が、雨によって一気に流れ落ちることです。
縄文時代の三瓶山では、土石流が森を生き埋めにしたのですが、一九九〇年代の雲仙(長崎県)の噴火のときは、いくつもの民家を埋めてしまいました。
火山災害のすさまじさを後世に伝えるための遺構として、こちらも保存されています。(長崎県南島原市 土石流被災家屋保存公園)
埋め尽くされた民家のある集落から、雲仙普賢岳火口のある山頂の方角を目指して一時間ほど登ると、大野木場小学校の旧校舎があります。多数の死者を生じた火砕流が発生したとき、犠牲者となった報道関係者や火山学者がいたのはこの学校のすぐ近くでした。
火砕流の熱風によって窓のサッシがゆがみ、ほとんどのガラスが割れるなどの被害が生じた現場がほぼそのままの状態です。
危険地域と見なされ、学校として再建することは不可能であるため、ここも災害遺構として保存されています。
背景にある山が、一九九〇年代の噴火によって形成された平成新山です。雲仙の連山でいちばん高い山となる下界を睥睨しています。
緑色の金属枠は、スリットダムという防災施設です。
コンクリートの水無川は、火山噴火にともなう土石流などを、誘導するためのものです。
最新の土木技術を駆使して、火山の災害を未然に防ぐ努力がつづいています。
大野木場小学校の旧校舎の近くにある公民館のような施設に、子どもたちが書いたこのようなパネルがありました。
ゴーグル、マスク、ヘルメットをつけての登校。
平成3年7月、天皇陛下が訪れたこと。
すでに歴史の一部になりかけていることですが、子どもの字をとおして、生々しい記憶がたちのぼっています。